私のご近所にはお地蔵さんがあちこちにあります。
いつかどういったものがあるのか全部の記録して回ろうかと思っているせいか(なかなか実行には移せていませんが)、お地蔵さんに目を向ける癖がつきました。
普段は車で通る新町の路地を、たまたま歩いていたらお地蔵さんがあることに昨日(2025年12月3日)気づきました。
「百日咳地蔵尊 上職人町」とあります。
この場所は熊本市中央区新町3丁目ですが、「上職人町」とはこの辺りの昔の地名のようです。
ワクチンがない時代、小さな子どもが重篤化したとき、最後に人に残された手段は祈りしかなかったでしょう。
いやそうでなく祈り自体が医療行為だったのに違いありません。
近代医学が誕生する以前、医療行為と祈りとは混然一体としていてその境界は明確でなかっただろうと思います。祈り自体が医療行為であり、病気を治すために人々は懸命に医療行為としての祈りを捧げていたのに違いありません。
近代医学が誕生し発達した現代にあっても「医療は祈りである」と言われるお医者さんもおられ(※)、現代でも医療と祈り(信仰)は医師においても完全に分離されているわけではなさそうです。
(※)「赤ひげは存在するか:地域医療 現場からの報告(全国国民健康保険診療施設協議会 編1989年刊)」に「医療と祈り」という事例報告があります。これを読んだとき医療と祈りとの関係について考えさせられました。
百日咳のお地蔵さんは全国あちこちに存在しているようです。ここ新町にもあるということは、昔、この辺りでも百日咳の患者が相当にでたということでしょう。
お地蔵さんが現在もきちんと手入れされ、残されているということは、市井の人々の中では医療と信仰とは今も完全に分かれているものではないことを教えてくれます。
現在(2025年)、患者数の全数把握が始まってから過去最大の百日咳の流行になっているようです。特に抗菌薬が効きにくい耐性菌も混ざっていて乳児が死に至るケースもあるとのこと。こうしたニュースに接し、私のところにも小さな孫たちがいるので百日咳が気になっていました。
そうしたこともあって、百日咳のお地蔵さんが、この場所を歩かせて私を呼び止めたのかもしれません。