2024年6月30日日曜日

「まちの風景」について

杉みき子さんによる児童書「小さな町の風景」(偕成社、2011年)を手にしたのはいつのことだったか。
いつだったのか、またどうやってこの書物を知ったのか、今はもう記憶に残っていません。
この本には、杉さんが、ご自身の生まれた町「新潟県高田市(現在、上越市)」をモデルに、普段の慌ただしい生活の中だとつい見過ごしてしまう町の風景が物語の形で生き生きと描かれています。

この本を手にしたとき、最初に収められている「坂のある風景」に特に惹かれました。少年が、「あの坂をのぼれば、海が見える」とつぶやきながら坂道をのぼる様子が印象深く、本を手にしてからずっと少年のつぶやきは私の中に残りつづけました。

坂道をのぼる様子が印象に残ったのは、おそらく、司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」の影響もあるのだろうと思います。若い頃にこの小説には引き込まれました。私と同世代の人たちはみなそうだったろうと思います。
「坂の上の雲」のあとがきの中で、司馬さんは明治期の日本人を楽天的とし、この時代の人々の生き方を、
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼっていく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼっていくゆくであろう。
と表現されています。

杉さんは、少年を楽天家として考えておられたかどうかはわかりません。ただ、元来、子どもとは楽天的なものです。私の小学生の孫娘をみていると天真爛漫で、「私、なんでもやれるわ」という感じで、なんにでも挑戦をしようとしていて、まさに坂をのぼっていく楽天家そのもののようです。


「あの坂をのぼれば、海が見える」を呪文のように唱えながらのぼっていく少年もきっと楽天家だったのに違いありません。
坂の上の雲だけをみつめて坂をのぼっていった楽天家たちの姿と「あの坂をのぼれば、海が見える」とつぶやきながら懸命に坂道をのぼっていく少年の姿とが重なり、「小さな町の風景」は私の大切な書物となりました。いつも目に触れるように、書棚の一番前においています。

それから、「坂道」は私にとって気になる町の風景となりました。


熊本市東区から熊本城近くに引っ越し、家内と近隣を散策するようになり驚きました。
同じ市内で、距離的にわずか10kmぐらいしか離れていないのにかかわらず、両者の風景があまりに違うのです。
東区に住んでいるときには坂道とはほぼ縁がありませんでした。
しかし、終の棲家としたこの土地では、あちこちで坂道に遭遇します。
家内と「もう一息」と言いながら、息を切らしつつ散歩する日々です。

戦略上、熊本城は台地に築城する必要があったからでしょう。
坂道が多くなるのは当然なのかしれません。
ただ、驚いたのは坂道の多さよりも、出会った坂道それぞれに名前がついていたことでした。
生活の中で、熊本城の軍事面でと、各時代の人々の会話の中で坂道を登場させる必要があったのでしょう。

東区とは随分と異なり、新しく移り住んだこの土地の歴史性を感じさせられました。


山田洋次監督には学校シリーズの映画があります。そのひとつ「15才 学校Ⅳ」は何度もみました。この映画の中で、主人公の不登校気味の少年が、ひとり旅の途中、宮崎県日向市で出会った自閉症の青年から詩を渡されるシーンがあります。次の詩です。
 
浪人の詩
草原のど真ん中の一本道を
あてもなく浪人が歩いている
ほとんどの奴が馬に乗っても
浪人は歩いて草原を突っ切る
早く着くことなんか目的じゃないんだ
雲より遅くてじゅうぶんさ
この星が浪人にくれるものを見落としたくないんだ
葉っぱに残る朝露
流れる雲
小鳥の小さなつぶやきを聞きのがしたくない
だから浪人は立ち止まる
そしてまた歩きはじめる

青年のお母さんは、この詩のことを少年から聞かされ、「あの子、そんげなことを考えちょったの」と涙されます。この詩は、きっと山田監督自身の言葉なのだろうと思います。2000年公開のこの映画を見てから、この詩も私の頭から離れずにいました。
ただ、当時は、早く着くことを優先する生活だったので、周囲の風景はまるで見ていなかったのですが。

「小さな町の風景」のあとがきで、杉さんは、
どんな町でも、どんな村でも、それを聞きだし見つけだそうとする心さえあれば、身のまわりのすべての風景が、いつも声のない声で語りかけているのがわかるでしょう。
と書かれています。
慌ただしくしていると、特にタイパ(タイム・パフォーマンス)を気にする現代では、そういった声が聞こえてくることはまずないでしょう。
退職して時間に余裕ができたので、見落としていた景色に目を向け、自分の足元からの声を聞いて暮らしていこうかと思います。

家内と歩きながら、私たちに見える景色や聞こえてくる声を言葉にして、このブログに書き留めていくことにしました。
熊本市中央区をメインにまちの風景をこのブログには記録していきます。それは、退職後の私たち夫婦の物語の一部でもあります。
ブログのタイトル「まちの風景」は、杉さんの「小さな町の風景」を使わせてもらいました。