2024年7月30日火曜日

長崎次郎書店が休業して1か月

熊本市中央区新町にあった長崎次郎書店は2024年6月30日で休業しました。休業前の様子を以前この散策記の中で紹介しました(まちの風景2024/5/22)。

休業日には多くのメディアが来て休業を取材されていました。最後の日の閉店の様子を私はテレビでみておりました。
休業から1週間。次の写真は2024年7月8日のときのものです。
以前であれば開店していた時間になってもシャッターは降りており、メディアはもちろん誰ももうそこにはいませんでした。
長崎次郎書店の位置 32.80012129102849, 130.69682317344487

2Fの喫茶室は営業中です。

シャッター前には張り紙がしてありました。
張り紙は、書店からの休業についのてお知らせでした。「創業 明治7年」と書かれた横にある休業のお知らせは、なんとも寂しい限りです。


本日で休業から1か月が経った2024年7月30日の長崎次郎書店前新町交差点の様子です。
交差点の人通りは少ないのは猛暑のせいでしょう。長崎次郎書店がシャッターを閉じたわけですが、レンズ越しに眺めていて、書店の休業とはほぼ無関係にまちは動いているように感じました。
もっとも影響があるようであれば、休業することなかったでしょう。
無関係にまちが動いているように感じたのは私自身がまちの書店の必要性を強く感じていなかったということなのかもしれません。
撮影日 2024年7月30日
撮影場所 32.79976955047972, 130.6969899857117

書店が営業していた頃は、ウィンドウには新刊書などが紹介されていました。今はもうそれらもなくなり、ウィンドウには車道で信号待ちしている車列が写っているだけでした。
そしてシャッターに貼ってあった休業のお知らせももうなくなっていました。

誰もこの前で立ち止まることはなくなりました。さらに時間が経てば、ここが書店だったことも知らない人が増えていくことでしょう。
シャッターに書かれた「創業明治7年 長崎次郎書店」の文字が、辛うじて、ここが書店だった教えてくれるだけになるのかもしれません。

ただゆくゆくはこのシャッターもなくなってしまうのかもしれません。
水面下でこの建物の利活用について議論されているはずです。よい形で再生されることを期待しています。
 

2024年7月25日木曜日

玉名市高瀬~鉄橋の風景

熊本市を出て、7月20日に玉名市を訪問しました。

大河ドラマ「いだてん」のロケ地となった玉名市の高瀬船着場跡の横にかかるJR鉄橋。
菊池川河川敷の駐車場から撮影したものです。

きれいな青空が広がり、鉄橋沿いにだけ雲が点在していました。
私には鉄橋を通過したSLの煙のように見えました。
撮影場所(河川敷駐車場)32.92675270055974, 130.56328452394214


実際、以前はSL人吉号が煙を吐きながらここを渡っていたはずです。
私は、週末になるとお昼ごろと夕方にSL人吉号の汽笛を聞いていました。
懐かしい音です。
老朽化のため惜しまれながら2024年3月で引退。
現在、疾走する雄姿を見ることはできません。

(たまたま引退前に撮影していた上熊本駅近くを走る)SL人吉号

撮影していることに気づくと、運転士さんが手を振って応えてくれ、SL人吉号にはさらに愛着がわいていました。
引退前になんとか切符を入手することができ、乗り物大好きな孫たちは玉名駅から熊本駅までの区間、SL人吉号に乗車することができ、感激したようです。

2024年7月22日月曜日

坂道の風景~豊前・豊後街道へと法華坂を上る

熊本日日新聞で随時連載されている「坂道を上れば」で、(たぶん)1回目に紹介されているのが「法華(ほっけ)坂」です(こちら)。

熊本城へと通じる坂道で多くの人が最初に思いつくのは「行幸(みゆき)坂」でしょう。
坪井川沿いの遊歩道から、あるいは桜町のプロムナードからと観光客にとってのメインストリートから熊本城へと通じる坂道だからです。
実際、連日、多くの人が行幸坂を通り、熊本城へと歩いていかれます。

一方で、法華坂はというと、朝夕にウォーキングしている方は結構見かけますが、昼間はあまり歩いている人を見かけることは少なく、どちらかと言えば、車・バイク用の道として利用されているように思います。

撮影場所:32.80438972719652, 130.6990883020962
撮影日:2024年5月15日

案内板にあるように元々はジグザクの坂道だったようですが、今は直線化された車道になっていて、ここから二の丸駐車場へと上がれます。
熊本城や熊本県立美術館へと出かける方にとって、法華坂は車道以外の何物でもないかと思います。


車でぶーんと、熊本城へと向かう単なる通路として使っていると法華坂の趣きには気づかないかもしれません。
春は桜で非常にきれいです。
撮影日:2024年3月27日

桜が散ると今度は緑に覆われ、坂道をゆったりと上りながらゆっくりと散歩するのにおススメです。
撮影日:2024年5月15日

特におススメは、法華坂を途中で左に折れ、野鳥園を横に見ながら、二の丸広場へと上がっていく散歩道です。
家内と法華坂を散歩するときはいつもそのコースです。
里程元標跡から二の丸広場まで私が測ったところ、距離にして450m、高低差24mほどでした。

車で来た時でも、とりあえずドライバーだけ先に車で駐車場まで上がってもらい、それ以外の同乗者は下から散歩しながら歩いていった方が良さそうに思います。
熊日の記事の中で、近くに住む方の「行幸坂に比べて観光客は少ないが、趣があるのは法華坂。散歩していると鳥のさえずりが聞こえて心地いい。」という言葉を紹介されていました。私もまったく同感です。

法華坂を上り、二の丸広場に入る直前に案内板があります。
ここは法華坂は豊前街道と豊後街道であったということです。2つの街道が熊本城内を通っていて、それが北九州へと向かう豊前街道と大分へと向かう豊後街道へと城内で分岐していたのだとか。

私は、豊前街道については熊本県山鹿市で何度もフィールドワークし、また豊後街道については熊本県菊陽町・大津町で同じく何度もフィールドワークしていました。
熊本城がこれらの地への出発点だろうというのはなんとなくはわかっていました。
法華坂を歩き、「ここからだったのか」とあの頃のフィールドワークで学んだ地域のことについてひとつまた理解を深めることができ、感慨深いものがありました。

歩かないとやはり地域のディテールは見えないように思います。
民俗学者・宮本常一は、大局的な視点からみる「大きな歴史」だけでなく、日々を普通に暮らしている無名の人々を記録し、「忘れられた日本人」の中でそうした人たちの「小さな歴史」の大切さを描いていきました。そうした人たちに出会うために宮本が採った方法は日本中を歩いて回るということだったようです。
じっくりと歩いていると、普段見逃していることが如何に多いことかを毎回知ることになります。

2024年7月19日金曜日

熊日連載「坂道を上れば」/池田駅へトンネルを抜けてくるくまモン電車

坂の上から眺めた熊本市西区池田
撮影場所:32.82685541497887, 130.7082905006267


先日(2024/7/14)の熊本日日新聞に熊本市西区池田校区にある坂道を地域資源として生かしていこうとしている地域の取り組みが紹介されていました。
そのきっかけは、熊本日日新聞が随時連載している「坂道を上れば」だったそうです。
池田校区の記事で、そういえば熊日新聞で坂道についての記事があったことを思い出し、熊日新聞のサイトで検索してみると29件がヒット。これまで27件の坂道が紹介されていました。

連載を担当されている熊日写真映像部の後藤仁考さんが、記事「取材最前線」(上の検索結果の2番目にある記事)の中で、坂道を見かけると「湾曲して先が見えず、傾斜も急ならば上ってしまう」と書かれていました。
これ、よくわかります。私も似たような気持になります。
特に、熊本城近くに引っ越してきて(長距離)散歩するたびに坂道に遭遇することが多くあり、杉みき子さんの「坂のある風景」にも刺激され、このブログ「まちの風景」の中で坂について書き留めておくようにしました(「まちの風景」について(2025/6/30))

熊日の池田校区の記事を読み(https://kumanichi.com/articles/1482683)、仕事も一区切りつき、午後から時間ができたので池田校区に出かけてみました。
確かに坂道の多くあるところです。それ以上に驚いたのは道が入り組んでいて、歩いていると行き止まりになり、下った坂をまた上り直すということを何度か繰り返したのでした。
梅雨が明けて、かなり暑い日でした。
行きつ戻りの探検ができたのでひとりだったから。ひとりだとこの先はなんだろうと彷徨いつつの探検モードになります。この日、家内が一緒だったら家内は倒れていたのではないかと思います。
 
行き止まりを反転し、坂道を上りなおして見つけた風景。
冒頭でも紹介している写真です。坂の上から眺めると線路沿いに駅らしきホームが小さくみえました。
撮影場所:32.82685541497887, 130.7082905006267


意外に駅までの道も難しくて(スマホは使わず、勘を頼りに歩いています)、やっとたどり着き、駅名を見たら「いけだ」とありました。坂の上から見たのは池田駅のホームでした。
撮影場所:32.827042218082596, 130.70761065707276

駅からすぐにトンネルがあります。池田校区の台地をくぐるためのトンネル。タイミングよく電車やってきました。
「トンネルを抜けるとそこは池田駅だった」と、まさにそんな感じで、抜けたらすぐに駅のホームです。

池田駅に停車。くまモン電車はこれから上熊本方面に向かっていきます。
14:30ぐらいでした。この電車からはお客さんがおひとり下車されました。
ちなみに、この電車には観光需要があって、外国人のお客さんで超満員になることがあります。上熊本駅でその様子を何度か見かけました。その時は、日常の地域の足としてのほのぼのしたくまモン電車とは全く異なり、テーマパークのギラギラした乗り物のように見えます。



池田校区を彷徨い、坂道を多さを実感し、帰宅しました。この日、歩いた距離は7.5kmほど。
涼しくなってから、今度は家内と一緒に池田校区は散策(探検)しようかと思います。


連載「坂道を上れば」にはたくさんの坂が紹介されています。
全部は無理かもしれませんが、可能な限り、私も追体験してこようと思います。
連載第1回は2022/9/19の「法華坂」のようです。法華坂は私も何度も歩いています。次のブログは法華坂を話題にしようと思います。
 

2024年7月16日火曜日

博多駅でみた山笠

今回は番外で、ブログのタイトルと異なり、博多での散策記となります。
 
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7月13日(土)に福岡に出かけ、いつもと違って変則的な日だったので、博多駅で15分ほど時間ができ、駅の外にふらりと出てみました。

人だかりがあったのでそっちの方にいくと、博多祇園山笠が飾ってあり、子どもたちが周囲に座り、山笠のスケッチ大会が行われているようでした。
撮影場所:33.59008428943669, 130.4195902374685
撮影日:2024年7月13日

仕事で福岡には毎週1回ほど25年近く通っています(今年から毎週2回)。山笠の存在自体は昔から知ってはいましたが、直に見るのは初めて。たいへん立派でした!

反対側に回ると、ワンピースの登場人物が作りこまれていました。

浴衣風の着衣姿の方は担当の方でしょうか?

昨日(7/14)は、大雨の中、山笠のフィナーレであったとニュースで知りました。
博多の街はたいへんな熱気だったことでしょう。
だいたい、博多駅で乗り換えるとき、博多駅の人の多さは半端ないものだと思います。面積はさておき、人の密集レベルでいくと東京駅と変わりない気がします。
熊本から出かけると賑わいの差を感じさせられます。
九州では博多に人が集まっていることを実感させられる瞬間です。
 

さて、私が、博多駅で山笠を見ることができたのは、新幹線から地下鉄への乗り換えで少し時間的余裕があったからでした。
25年ほど前に福岡に仕事に週1で出かけていた頃は地下鉄はなく、博多駅からバスで七隈へと通っていました。バス内は激混みで非常に大変でした。
ちなみに、熊本から博多までは「特急つばめ」でした(懐かしい)。
地下鉄七隈線が2005年に開通したときには、バスでの混雑から解放され、感激したことよく覚えています。天神南駅が始発だったので、便利さが今一つだったからでしょうが、この頃の七隈線は乗客が少なく快適でした。夜だと1車両に私1人ということも経験したことがあります。
ところが、2023年に延伸され、天神南から博多駅までが開通すると事情が一変しました。
福大前駅から博多駅までは昼間、特に福岡大学の授業の始まり・終わりの時間帯はギューギュー詰めの状況になっています。

山笠は、毎年、飾ってあったのではないかと思いますが、25年もの間、近くを通りながら初めてみました。
七隈線が博多駅まで延伸されたことで、博多駅で乗り換えをするようになり、地下鉄のおかで時間的に余裕が生まれ、それで土曜日は博多駅の外に出てみたのでした。
山笠を見ることができたのはそのおかげでした。
 

2024年7月10日水曜日

坪井川に野生の鵜(カワウ)がいた

今朝(2024/7/10)、市役所前の歩道からみた熊本城の長塀と坪井川。
川の真正面、遠くに見える山が花岡山で、西南戦争の際には薩摩軍はこの花岡山から熊本城を砲撃していたのだそうです(まちの風景2024/7/3)。
撮影場所:32.803744066657266, 130.70753692074945

少し先に歩き、加藤清正像のあるところまで行って、行幸橋(みゆきばし)から眺める風景はたいへんきれいです。次の写真は新緑の頃2024年4月24日に撮ったものですが、この時期、坪井川沿いの歩道は多くの人が行き交っています。
撮影場所:32.802756173234144, 130.70455574171697
撮影日:2024/4/24

さらに桜が咲いていると、歩道は人でごった返す状況になります。春に、坪井川沿いをゆったり散歩するのは無理です。
撮影日 2024/4/4

蝉が鳴いている、初夏のこの日は、朝が早いこともありましたが、人を気にせずゆったりと散歩できました。行幸橋から城彩苑へと向かうのが定例のコースですが、この日はなんとなくそのまままっすぐ進み歩道沿いに桜町方向へと向かいました。

そうしたら、なんか見慣れない鳥が浮かんだり、沈んだりしております。
家内が「鵜じゃない!?」というので、急ぎ写真を撮ったり動画を撮ったりして観察していると、確かに鵜のようです。
帰宅後に調べてみると、おそらく私たちがみた鳥はカワウであったろうと思います。
時間的に、人通りがほぼなかったのでカワウもノンビリと狩りができたのでしょう。おかげで、私たちも鵜の狩り(らしき)様子に遭遇することができました。早起きは三文の得。ラッキーでした。

次の動画、この時撮影したカワウが坪井川で狩り(らしき行動)をしている様子です。
撮影場所:32.802113913827895, 130.70325458066813
撮影日時:2024/7/10 午前7:14

動画は一部ですが、観察中、何度も泳いでは潜り、潜っては泳ぎを繰り返していました。ひょっとすると、カワウはただ遊んでいただけなのかもしれませんが、私たちには狩りをしているように見えました。

さて、坪井川にはカワウが生息しているのでしょうか。
調べてみると、カワウは日本全国の河川に広く生息している野鳥のようです。
ただ、生息状況調査をみると
少なくとも熊本県、特に熊本市でのカワウを見ることはかなり稀なことのようです。
野鳥観察を行っている方々にとっては、ひょっとすると私の写真と動画はひとつの資料になるのかもしれません。

私たちが見たカワウはどこからやってきたのでしょう。
このまま居ついてくれれば、長良川まで鵜飼を見物に行く必要はないかもしれません。^^;
ただ繁殖してしてしまうと被害につながり困っているとこもあるようなので、適正レベルの個体数で居ついてくれるとよいのですが。
 

2024年7月8日月曜日

味噌天神という神社はやっぱりあった

熊本市の通称「電車通り」を走るバスに乗っている方であれば「味噌天神」という言葉は耳慣れたものになっているかと思います。私もこれまで30年間、熊本市内に住み、電車通りをバスで街にでかけていたので車内アナウンスのおかげでバス停「味噌天神」には随分と馴染まされました。
バス停「味噌天神」は高速バスの停留所にもなっているので、熊本県外の方でも聞かれているかもしれません。

バス停としての「味噌天神」はよく知っていました。ただ、通過するだけでここで乗り降りしたことはありません。
たまたまですが、最近、この辺りを歩く機会があり、交番の横に神社があることに気づきました。
特に目立つ雰囲気でもないので、何もなければ通り過ぎたと思いますが、バス停としての「味噌天神」が頭に刻まれていましたので、ひょっとしてと閃き、鳥居の前で立ち止まりました。
撮影場所:32.79546366557079, 130.72393726343367

鳥居をみて、そこにある神社の名前をみて、「あーやっぱり、味噌天神という神社はあるんだ」というのがその時の素直な感想です。


味噌天神があるからバス停にその名前が付けられたはずです。ただ、多くのバス利用者にとっては、バス停としての「味噌天神」が先にあり、そうしたバス停があるんだから、それらしき神社があるんだろうぐらいのもので、実際の神社としての存在は意識することはなく、幻のなようものでした。
実際、「味噌天神」というバス停の名前がなかったら、通りを歩いていてもこの神社はおそらく素通りしたのではないかと思います。
鳥居を見つけた瞬間は、幻が現実の存在へと変わった瞬間でした。
始めに言葉ありき。言葉の力は非常に大きい。
バス停として何度も聞いて頭に刻み込まれていた言葉が、現実の神社へと私を誘ってくれたのでした。
 

神社内に入ると味噌天神の由来について詳しい説明が書いてありました。
神社の本来の名称は「味噌」でなく「本村神社」いうことです。
この神社には、疫病を終息を願い、肥後の初代国司のときに、神薬(しんやく)の神として「御祖(みそ)天神」を祭祀されたとあります。
その後、大切な味噌が腐敗するという非常事態を受け、この神様にまつわる新たな伝説がここで生まれ、その後この神宮は「味噌天神」と呼ばれることになったようです。
ところで、神薬という言葉を初めて知りました。神薬とは「不思議な特効のある薬。霊薬。」といった意味のようです。どうもここは「薬」とも関係している地みたいです。

社への入り口

神社の後はすべり台等がおかれた公園になっています。正面から見ていたらわかりませんでしたが、公園までいって横から見ると、社は前後2棟で出来ていることがわかります。

味噌伝説に出てくる笹があるだろうかと周囲を見渡しました。
見つけられません。その代わり、後方の社の傍に、見たことがない植物が生えているのを見つけました。
これは花なのでしょうか?

それに、この植物には奇妙な形の実が生っています。
帰宅後、生成AIにこの写真をみせて尋ねたところ「チョウセンアサガオ」ではないかということでした。
一般の人には有毒植物のようです。ただしこれは麻酔薬の原料になる成分なども含んでいるようです。味噌天神には、もともと、神薬の神としての「御祖(みそ)天神」が祭祀されていたわけです。そういうルーツを持つ神社ですから、それもあってチョウセンアサガオのような種類の植物が自生or栽培されているのかなと想像してしまいました。



味噌天神すぐ奥、歩いてすぐのところに熊本大学薬学部のキャンパスがあります。
そこには「薬草パーク」というのがあり、色々な薬草が植えられていました。

ここ味噌天神は、やはり薬の神様なのだと思いました。熊本市に住みもう30年。熊本大学薬学部が味噌天神の奥にあることを実はこの時初めて知りました。
味噌天神のルーツを考えると、薬学部がこの地にあることはかなり納得できるものでした。


味噌天神をみつけ、周囲をただ風景を眺める散策だけでの感想ですが、思ったことは、この地域は、熊本市内の薬草についての中心地ではなかろうかということでした。ただ今現在は異なる可能性もあるわけですが、少なくともルーツであるように思いました。

毎年10月25日の例大祭は多くの人で賑わうようです。
 

さて、味噌天神という言葉が私の中に刷り込まれていなかったら、このエントリーを書くことはなかったでしょう。神社の前を素通りしていたはずです。そして近くに熊本大学薬学部があり、そこに薬草パークなるものがあることも知ることはなかったでしょう。
言葉とは、私たちの行動に強く影響する、不思議な、神のような力を持つもののようです。


2024年7月6日土曜日

坂道の風景~急勾配の棒庵坂

熊本城内に上る坂はいくつかありますが(先日、紹介した砂薬師坂はそのひとつです)、その中でも最も勾配がきついのが棒庵(ぼうあん)坂だろうと思います。
名前の由来、そしてこの坂は防衛上重要な意味を持っていたなどは、坂の下の案内板で紹介されています。
撮影場所:32.80783509032624, 130.7057670533124

写真では分かりにくいですが、そこに立つと、見上げるようなかなりの勾配です。
街中から新町方面に熊本城内を突っ切って近道をしようと思えば棒庵坂を上ることになり、そういった近道派の人たちにとってはこの坂はけっこうな難所ではないかと思います。

Apple Watchで測ってみると、坂を上り切るまでに、
  距離100m、高低差13m
という結果でした。これから勾配の角度を見積もるとだいたい7.5度ぐらいになります。
数値だけみると大したことはないように思えますが、家内が「え、ここを上るの!?」と言うぐらいでしたので、普通の感覚だとかなりの急勾配です。

坂を上り、上り切ってから、二の丸広場入口まで(動画)
2024/7/6撮影

前から思っていましたが、棒庵坂は石段ではなく、なぜスロープなのでしょう?
荷車などでの資材、荷物の運搬を考えてのことだったのでしょうか? ただ、それにしても側方に人間が必要な幅ぐらいの石段を設けていてくれると、人の上り下りはもう少し楽だったでしょうに・・・。

坂を上り切ると石材置き場を見渡せます。
熊本地震で崩落した石材を保管している場所です。これらの石材はすべて番号が付されていて修復の過程で元の場所に戻されていくということです。気が遠くなりそうです。


別日、2024年7月6日の早朝に散歩していると、棒庵坂を自転車でやってくる高校生にたくさん出会いました。
最初にみかけた高校生は、棒庵坂を自転車をこいで上がってくるので、家内が声を上げておりましたが、上がってきたところでよくよく見てみたら「電動アシスト自転車」でした。
なんともものすごい高校生だと思いながら眺めていたわけですが、それは間違いでした。ただ、高校生も電動自転車を使っている時代なんだなと、謎が解けた後はそっちが驚きでした。
もっとも、続々と上っている高校生の多くは普通の自転車でした。それらの高校生はどんな屈強な高校生も確実に押して上ってきておりました。
さすがに7.5度の勾配を普通の自転車で登ってこれる人はそういないようです。

自転車を押してくる高校生たちはすべて野球のユニフォーム姿でした。
今日から、二の丸広場の先にある藤崎台球場で、甲子園の熊本予選が始まったようです。
空には入道雲も見るようになりました。
夏が来ました。


球児とは異なる別の高校生集団が棒庵坂にいます。
棒庵坂を下から何度もダッシュで駆け上がってくるではありませんか。
YONEXのTシャツで、あまり日焼けをしていないようです。おそらくバドミントンの選手たちなのだろう思われます。
あの急勾配を駆け上がってくるのですから、高校生のパワーには驚きます。

棒庵坂をダッシュしている女子高生たちは、おそらく近隣の高校の生徒さんでしょう。
もしそうだとするとオリンピック選手も輩出している高校なので、それらの方々も高校生の頃に、この棒庵坂で毎朝トレーニングをされていたのかもしれません。
他に、長距離のトレーニングをしている高校生も見かけました。スピードに腰を抜かすほど驚きました。カモシカが走り抜けていった感じでした。

棒庵坂は、侍の時代、若侍たちにとっても鍛練のための大事な場所であったのかもと想像をたくましくしてみました。ただ、当時は門があり番所も設けられていたので、鍛練の場には不向きだったかもしれません。
今現在、その棒庵坂、現代の若いアスリートたちの鍛錬の場として貴重な役割を担っているようです。

2024年7月3日水曜日

坂道の風景~砂薬師坂

熊本市電の杉塘(すぎども)電停から5分ほど歩くと、「三の丸広場」と刻まれた石造りの門札があります。
撮影場所:32.80911893738056, 130.6974086298808

門札を通り抜け、ゆるやかな石畳の坂を少し上ると、石段に変わります。
私たち夫婦が熊本市中央区に引っ越してきて、最初に出会った石段の坂道がここ「砂薬師(すなやくし)坂」でした。名の由来は、坂道を上りきったところに薬師堂があったからだそうです。

石段を上りながら数え、そして愛用のApple Watchで測ってみたら、門札から石段を上りきったところまでで
  石段数23段、距離100m、高低差8m
という結果でした。
砂薬師坂は、退職後の私やそこまで体力のない家内でもたやすく上れる坂道です。

この坂を初めて歩いたのは春でした。
新緑に囲まれ、それがとてもきれいで、家内と「こんなところを散歩できるって、なんて贅沢なんだろう」と話したように記憶しています。

左は石垣。右は土手です。土手は全面が苔で覆われています。
老眼のため焦点がぼやけながらも近づいて凝視すると、苔の正体は、気泡を敷き詰めたような幾何学模様に覆われた小さな葉っぱでした。
小さな葉っぱをみて、「これは苔なのか?」と疑問が私には湧きあがり、家内に話すと家内は「ふ~ん」程度でまるで興味は示さず、さっさと歩き始めていました。

朝は、上っていくと目の前に、木立の間から朝日が差してきます。
苔には興味を示さなかった家内は、立ち止まり「きれいね」と小さく声を出していました。
私はミクロな風景に興味を持ったわけですが、家内は、ありのままに目に入ってくる風景が大切なようです。
男女の違いということでないのでしょうが、同じ景色をみていても人によって見方は随分と違うものです。

坂道を上るとき撮った動画です。梅雨明け宣言はまだですが、たぶん明けたような状況になった2024年7月3日に撮ったものです。2,3日前に蝉が鳴いているような気がしました。それが、晴れ間が出たらいっきに蝉の大合唱。夏を迎えました。
砂薬師坂を上る(2024/7/3撮影)

砂薬師坂を上り切ると広い空間に出ます。
右手が三の丸広場、左手はテニスコート。そして、右手前方には熊本市博物館、左手前方は旧細川刑部邸です。

昼の風景
昼間、この空間を利用している多くは年配の方々。
テニスコートを利用されています。
ボールが飛び交っているのは見えますが、あまり声はあまり聞こてきません。

夕方の風景
学校が終わってから、このテニスコートで中学か高校の生徒たちの部活練習が始まります。
大きなかけ声が響き、大変賑やかになります。砂薬師坂の厳かな雰囲気は一変し、躍動感とが重なる非常に不思議な空間へと変化していきます。

朝の風景
三の丸広場と熊本市博物館の間の石畳の通りを急ぎ足で歩く人々によく出会います。この日も、仕事に向かわれているらしき男性をみかけました。
この石畳通りを毎日通勤で使われているのでしょう。
私の場合は、車が多く行き交う通りを騒音を聞きながらの通勤だったでの、樹木に間を石畳を歩きながらの通勤には嫉妬のようなものを感じました。
ただ、出会う通勤の皆さんの多くはスマホを見ながらの急ぎ足です。車がいないからできるわけですが、タイパ優先時代の特徴的な姿だなと感じます。
ミヒャエル・エンデ著の児童書「モモ」に登場する「時間泥棒」に操られているのではないかと想像してしまいそうです。
「ねぇ、みなさん、映画「15才 学校Ⅳ」に登場する青年のような歩き方(まちの風景2024/6/30)もたまには良いのではないですか」と伝えたくなります。


砂薬師坂という名は後で知ったことでした。MicrosoftのCopilotに教えてもらいました。さらに、その由来も尋ねてみると、Copilotからの回答は次のようなものでした。

砂薬師坂(すなやくしざか)の名前の由来については、熊本城の西北側に位置するこの坂が、加藤清正が熊本城を築城する際に、井芹川の引込水路から資材を陸揚げした河岸に続く坂道として使われたことに関連しているとされています。また、この坂は西南戦争の「段山の戦い」の舞台となった場所でもあり、歴史的な背景を持っています。さらに詳細な情報が必要な場合は、『平成肥後国誌』や『熊本城下の坂』などの文献に記載されている内容を参照すると良いでしょう。

なるほど砂薬師坂とは、近くを流れる井芹川(いせりがわ)と熊本城とをつなぐ重要な役割を担った坂だったわけですね。
築城の時には、多くの人々がこの坂を通って資材を運搬したわけで、のんきに散歩している私たちとは違って、景色がきれいだとか、そんなことを感じる余裕などなかったのに違いありません。
先人に思いを巡らしつつ、一方で、Copilotの回答にある「段山(だにやま)の戦い」というのが気になりました。
砂薬師坂から段山、そして井芹川までは歩いて10分ぐらいものです。
先人のことはさておき、すぐに井芹川にかかる段山橋まで行ってみました。
(※)ここ段山橋は熊本市と山鹿市とをむすぶ全長34kmの自転車道(ゆうかサファミリーロード)のスタート地点となります。

段山橋の向こうには花岡山が見えます。西南戦争では、薩摩軍は花岡山から砲撃をしていたそうです(熊本日日新聞「古地図で歩く 城下町くまもと」より)。

段山橋のたもとに、段山での西南戦争について記された石碑がおかれていました。
砂薬師坂にて、両軍が対峙し、この段山での激戦で多くの命が散ったようです。
合唱。
熊本市中央区は、熊本城下町だったので過去にあった色々な出来事が記録として色々と残っているものです。
どの土地も過去はあり、そこではその土地固有の出来事があったはずです。しかし、歴史として残っていくにはそのことを記録する人たちがいないといけないわけで、石碑を眺めながら記録の大切さを改めて感じました。




二人でしばらく、散歩がてら、熊本城下の坂巡りを続けてみようかと思います。